「持っていなくても良い」 03−06−22
ルカ9:1〜6
主(しゅ:イエスキリストのこと)によって呼び寄せられ、遣わされるのが
弟子たちでした。
それは私たちも同じです。毎週の礼拝で、主のもとに呼び集められ、
遣わされていくことを体験しています。
主に呼び集められなければ、誰も礼拝に集うことはできません。
自分の意志よりも、主の側の働きかけ(呼び集めること)がなされて
いるからこそ、人は礼拝に集うことができるのです。
ですから、礼拝者はすでに主の御手にしっかり捉えていただいて
いると信じてよいのです。罪あるものが、主の御前での礼拝に呼び集め
られていることに、すでに恵みの奇跡があります。自分が礼拝に集って
いる不思議さを見失う時に、主に捕らえていただいていることも見失って
しまいます。
遣(つか)わす側と遣わされる側との関係は、どのようなものでしょう。
まず両者の深い関係があります。浅い関係しかないならば派遣される
こともないのです。また、私たちを信頼しているから派遣するのです。
ただし、私たちの中に信頼に値するものがあるのではありません。
主が信頼しておられるのは、「支え、強め、補い、用いよう」とされる
主ご自身の決意です。その主のゆるぎない決意があるからこそ、小さく
弱い私たちが主の民としてこの世に派遣されることが起こるのです。
また、その決意ゆえに「何も持って行ってはならない」とおっしゃるの
です。これは、「何も持たずに苦労しなさい」ということではありません。
「持っていかなくても、必要なことは私が与える」との約束が込められて
います。
主イエスにつながって生きる私たちは、もはや自分ひとりで
勝手に生きているのではありません。主につながる者として、
主から遣わされて職場や家庭で生きています。
しかも、私たちを補い、用いようとされる主イエスの決意に囲まれる
ようにして、「必要は私が与えるから」というお言葉を携えながら生きて
います。
遣わす主イエスが、遣わされている私たちを支え、補い、強め、
守ってくださることを信じて生きています。